何年か前に、どこかで見かけた文章です。
この文章のように簡単にいかないことの方が多いです。笑
「こうはいかない私の人生は、もう終わりなの?」と絶望したのを覚えています。
その当時の私に伝えたい。
「大丈夫だよ」
泥水が濃ければ濃いほど、蓮の花は大輪の花を咲かせる
泥水とは人生におきかえれば、つらいこと、悲しいこと、大変なことです。
ほとんど泥水ではなく、真水に近いようなきれいな水である場合、蓮の花は本当に小さな花しか咲かせません。
大輪の花を咲かせるためには、ものすごく汚い泥水が必要です。
蓮の花は泥水の中からしか立ち上がってこないのです。
蓮の花とは、
まさに人生の中で花を咲かせること
そして、その花の中に実があるのが 「悟り」 です。
つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることがないのだ、ということをお釈迦さまは教えたかったのだと思います。
人は 「悟る」 ことが出来れば、迷い苦しみはなくなり、まわりのこと、人、もの、現象が、
みんな 「幸せに思える」 ようになります。
お釈迦さまが伝えたかったこと
お釈迦さま は うつくしい花を咲かせるためには泥は必要であるということを 伝えたかったようです。
私たちはいろいろな悲しみ・つらさ・大変なことを経験しない限り、悟ることはできないという教えです。
そんな苦難なときが来たら、「ああ、この結果として私は大きな悟りに、美しい世界に導かれていくのだな」と思うことが大切です。
そう思えれば、自分自身にとってものすごく嬉しく楽しく、幸せで素晴らしいこと、そして、有難いことだと気が付いてきます。
それをお釈迦様は後世の人に伝えたかったようです。
その象徴として、蓮の花が台座に選ばれました。
※ 「悟り」 とは受け入れること。受け入れるためには3秒あればよい。
1秒目、過去のすべてを受け入れること。
2秒目、現在のすべてを受け入れること。
3秒目、未来のすべてを受け入れること。
執着の正体
「こうありたい」 あるいは 「こうあってはならない」 と思うことは、そのどちらも執着ということにほかなりません。
執着していることが、自分にとってのストレスになり、ストレスが体を壊していくようです。
※ 悟りを開くとは「仏」すなわち「真理に目覚めた人」に成ることをいいます。
心の迷いが解けて、真理を会得することの意。
悟りの世界=迷いのない心の安住の地。
悲しい・つらいことを否定せず、悟るために必要なものとして受け止めると、この経験が、を豊かにして、いつでも幸せを感じ取る事が出来ます。
人の悲しみや苦労も解る豊かな心になります。
「心が豊かな人は、いつでも幸せです」
簡単に受け止めることができたら苦労しない
自分が経験する悲しく・つらいことを否定せずにいられたら苦労しない。
悲しくつらいことは間違いなく自分の心を締め付けるし、出来事によっては心臓をえぐられるような苦しみも味わうこともある。
そう簡単に受け止めることが出来ない苦しさと共に、何十年という時間を過ごすこともあるし。
本人にとっては、何十年という時間が経過していてもその苦しさで自分の人生の時間だけが止まったように感じることもある。
そう、自分一人でどうすることも出来ないことも生きていると起こり得るんだ。
生きていても死んでいるような心地しかしない時は、その苦しい胸の内や、どうしたらいいのか分からないもどかしさや居た堪れなさをご先祖さまのお名前を呼んで、御神仏に聞いてもらおう。
嘘つくんじゃねぇ。カッコつけてんじゃねぇぞ。
どんなに汚い言葉であっても。罵詈雑言であっても大丈夫。
今、感じること・思うことをぜーんぶ、普段、頼りにされている地蔵様や 氏神さま・観音様に聞いてもらおう。
お詣りの時も、罵詈雑言も素直にそのままの言葉で、自分の口からお伝えしよう。
自分の口から、自分の言葉で発しなければ誰にも伝わらない。
自分の足で御神仏の前に行って、手を合わせて自分の気持ちや言葉にならない思いを吐き出そう。
その時に、自分のご先祖さまのお名前を呼んで、御神仏と一緒に聞いてもらおう。
親や友達にも話せないようなことでも大丈夫。
今、自分の中にあるいろんな感情をご先祖さまと御神仏の前で吐露しよう。
そしたら、動き出した何かに気づけるかもしれない^^
私がお詣りの時に、最後の念押しの意味を込めて御神仏とご先祖さまに伝えている一言を紹介します^^
私に分かるように、見過ごしたり、スルーしようがないくらい分かりやすく教えてください!
まとめ
生きづらさを感じるなら、誤魔化さず、なかったことにしないで、一旦自分が受け止めて、そのしんどさを、ご先祖さまと御神仏の前で吐き出そう。
溜め込んでいいことなんてないよ。
時間だけは、吐き出しても吐き出さなくても流れていくよ。
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